<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>ニュートップリーダー　成功経営者の「実践」に学ぶ、中小企業経営者のブレーン誌 &#187; トップの生き様</title>
	<atom:link href="http://www.newtopleader.jp/list/pickup/life/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.newtopleader.jp</link>
	<description></description>
	<lastBuildDate>Mon, 30 Sep 2019 01:58:42 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>http://wordpress.org/?v=3.5</generator>
		<item>
		<title>永続・繁栄に導く意思決定とは 社運を分けるトップの決断（旭電機化成株式会社・社長　原直宏氏）</title>
		<link>http://www.newtopleader.jp/pickup/life/1968/</link>
		<comments>http://www.newtopleader.jp/pickup/life/1968/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 28 Feb 2014 06:11:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[トップの生き様]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.newtopleader.jp/?p=1968</guid>
		<description><![CDATA[社員に経営参画意識をもたせたり、衆知を集めることの重要性が叫ばれて久しいが、最終的な意思決定が、依然として経営 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>社員に経営参画意識をもたせたり、衆知を集めることの重要性が叫ばれて久しいが、最終的な意思決定が、依然として経営トップに課せられた重大な仕事であるのは言うまでもない。会社の将来を左右しかねない判断の難しい課題であれば、なおさらである。<br />
そうした際、トップはどのように決断すべきなのか。正しい結果を引き寄せる決断とは、どういった過程を経て下されるものなのか。<br />
社内外の軋轢（あつれき）や内面の葛藤を振り切って断を下し、自社を存続・繁栄に導いたトップが、節目となったその意思決定を振り返る。</p>
<p><strong>【手記】決断の質を高めるために会社は強くなければならない<br />
旭電機化成株式会社 社長　原直宏氏</strong></p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-1209" alt="tl_1403_2" src="http://www.newtopleader.jp/wp/wp-content/uploads/2014/02/tl_1403_2.jpg" width="700" height="272" /></p>
<p>いまから40年ほど前、私は経営者として初めて重大な決断を迫られていた。急激に悪化した業績への対処策である。しかし、当時の私には人員を削減し、工場を閉鎖して売却する以外に手立てはなかった。</p>
<p>他に選択肢がない以上、速（すみ）やかに着手して、実務を淡々（たんたん）と進めるしかない。躊躇（ちゅうちょ）していられる余裕はなく、正直なところ、私は葛藤（かっとう）に悩まされることもほとんどなかった。会社を継いだばかりの私には、大切な仲間を失うことの意味が理解できなかったのである。</p>
<p>私は、ほぼ2年間をかけて6工場のうち4つを売却し、250名近かった従業員を50名に削減した。大幅に事業を縮小したことで、会社はどうにか当面の危機を乗り切った。だが、私には社内外から容赦のない非難が浴びせられた。それは、突然、生計の道を断たれた人たちの怨嗟（えんさ）の声だった。</p>
<p><strong>大学在学中父の急逝で社長を継ぐ</strong></p>
<p>私どもは、1933（昭和8）年創業の旭ライト製作所を前身としている。創業者は私の祖父で、合成樹脂によるラジオ通信機器部品を製造していた。戦争による混乱を経て、50（昭和25）年、祖父の跡を継いだ父が現在の社名で法人化を果たすと、プラスチックの一種であるフェノール樹脂の成形加工技術で光熱器具部品などを製造した。黒い樹脂でできた鍋の取っ手部分を想像していただければ、わかりやすいと思う。</p>
<p>決して付加価値の高い仕事ではなかったから、父は生産効率を向上させるべく規模の拡大に力を尽くした。だが、73（昭和48）年初春、変動相場制への移行により円高が急激に進み、同年秋の第一次オイルショックで日本経済が消費不況に陥ると、それまでの拡大策は裏目に転じる。仕事の多くが海外へ流出し、取引先の業績も悪化した。父が急逝したのは、そうした時期のことだった。</p>
<p>持病の高血圧はずいぶん前から思わしくなかったようで、父も万一の事態を覚悟していた節（ふし）がある。その数年前、高校3年生だった私は父に連れられ、主治医を訪れたことがあった。主治医は具体的な数値を挙げて、私に父の健康が危ういものであると告げた。</p>
<p>「お父さんの血管は、いつ破れてもおかしくない。長男であるきみは、明日にでも会社を継ぐつもりで準備しておいたほうがいい」</p>
<p>だが、父はまだ若く、息子の私が見ても堂々と頼もしそうな様子は、いかにも経営者らしかった。その姿に甘えていた私は、主治医の警告をよそに、大学に進学すると海外への夢を膨（ふく）らませ、放浪の旅に出た。主治医の指摘が現実のものになったのは、その間のことで、慌（あわ）てた私は予定を切り上げて帰国したが、それから2か月後の74年秋、父は48歳で亡くなった。</p>
<p>相続人が後継しなければ融資の継続は難しいという銀行の意向もあり、私は学生の身で会社を継いだ。毎朝、大学に通い、講義が終わるとトラックで取引先へ納品に向かう。そして、夜は会社に顔を出し、事務処理などに忙殺された。そうしたなか、私は経営が想像以上に厳しい状況に追い込まれていたことを知った。その年、私どもの売上の上位を占めていた2社が倒産し、翌年、さらに2社が潰れている。仕事が激減して一部の工場は事実上、操業を停止し、年商は前年の14億円から6億円に落ち込んだ。借入金は4億円、設備支払手形も2億5,000万円に達していた。</p>
<p>あらためて振り返っても、そのときの私は何より赤字を食い止めるべきだったと思う。血を流しながら戦い続けられるほど、私どもは強靱（きょうじん）な体力を持ち合わせていない。年商に見合う規模まで事業を縮小しなければ、早晩、倒れるのは目に見えていた。そうした意味で、人員の削減と工場の売却はやむを得ない決断だったと信じている。</p>
<p>だが、たとえ避けられない決断だったとしても、それにより私が重い十字架を背負ったことは確かだった。肺腑（はいふ）をえぐられるような批判を耳にしながら、私はそのとき心に誓った。二度と人員削減はしない、と。それは、会社の将来を気にかけながら旅立たねばならなかった父への誓いでもあった。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.newtopleader.jp/pickup/life/1968/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>葛藤と相克が人間力を養い、求心力を生む 先代を乗り越える社長の器（株式会社コバック・社長　小林憲司氏）</title>
		<link>http://www.newtopleader.jp/pickup/life/1207/</link>
		<comments>http://www.newtopleader.jp/pickup/life/1207/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 07:36:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[トップの生き様]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.newtopleader.jp/?p=1207</guid>
		<description><![CDATA[後継者にとって様々な面で乗り越えなくてはならず、目標としても強く意識せざるを得ないのが、先代（多くは父親）の存 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>後継者にとって様々な面で乗り越えなくてはならず、目標としても強く意識せざるを得ないのが、先代（多くは父親）の存在である。一方で時代の変化から過去のやり方が通用しなくなり、事業方針を巡って衝突するなど、両者は葛藤が生まれやすい構造にある。いまは先代から揺るぎない信頼を得て経営に邁進する社長が、先代との葛藤を克服するなかで、いかにして自らがなすべきことに気づき、どのような努力を重ねていったのか、成長の軌跡を振り返る。</p>
<p><strong>【手記】すべてを受けとめればその親心に気づく<br />
株式会社コバック 社長　小林憲司氏</strong></p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-1209" alt="tl_1311_1" src="http://www.newtopleader.jp/wp/wp-content/uploads/2013/10/tl_1311_1.jpg" width="700" height="257" /></p>
<p>30歳のとき、誓約書を書いた。</p>
<p>「1年間、赤字が続いたら、丸坊主になって生涯、父の奴隷となる」</p>
<p>そんな文面のひと文字ひと文字に気持ちを込め、覚悟を示すつもりで拇印（ぼいん）を押した。もっとも、それを父に手渡すことなく机の抽出（ひきだし）にしまい込んだから、いったい誰に対する誓約だったろうか。父か神仏か、あるいは自分自身か、いまにして思えば、そのいずれでもあったような気もする。自分にけじめをつけるつもりだった。</p>
<p>そのころ、私は社運を賭けた勝負を心に決めていた。直営車検専門店を新規に出店する計画である。これは、おそらく業界で初めての試みだったと思う。というのは、当時、車検専門店はまだ世間にほとんど認知されていなかったからで、お客様にとって車検とは、自動車を購入した店か旧知の整備工場などに依頼するものだった。当然、新規に出店する車検専門店にそうしたお客様はいない。常識的に考えれば、無謀と言われてもしかたのない計画だった。</p>
<p>しかも、新規店がお客様を獲得できたとすれば、それは同業者の縄張りを荒らすことでもある。失敗は火を見るより明らかで、たとえ成功しても同業者の恨（うら）みを買わねばならない新規出店に、私は2億円を投じる計画であった。そのころの年商は4億円である。</p>
<p>想像はしていたが、社内の多くが反対した。なかでも、激しく反対したのが社長である父だった。父にすれば、創業以来、人生を賭けて育てた会社を危地に陥（おとしい）れる冒険は許せるはずもなく、業界の仁義に背（そむ）く点でも、専務だった私の言動は横暴と映ったに違いない。なんとしても見過ごすわけにはいかないという父の気迫が感じられた。</p>
<p>だが、私にも言い分はあった。最も大きな理由は、既存店がすでに能力の限界に近づいていたからである。おかげさまで、そのころ私どもの車検台数は、1日あたり最大で50台にも達していた。1日10台も手掛ければ奇跡的とされる業界で、工場の拡張でもしない限り、それ以上の車検は物理的に不可能だった。</p>
<p>そして、もう1つ、私には新規出店を実現しなければならない理由があった。詳（くわ）しくは後述するが、全国展開をめざすことで、社員と夢をわかち合う会社にしたかったのだ。FC加盟店による全国展開は緒（ちょ）についたばかりで、その成否を左右するだけに、私にとっては父が何と言おうと成功させなければならない乾坤一擲（けんこんいってき）の勝負であった。</p>
<p>ところが、そのとき私は父に対する甘えに気づいたのである。連日、父とは激しく議論したが、互いに譲らず、父も私もしばしば高ぶる感情を抑えかねた。だが、そうした時間が過ぎ去って、ふと冷静さを取り戻したとき、「うまくいかなくても、親父がなんとかしてくれる」とうそぶく、かすかな心の声を聞いたのだ。父に対してさえ1歩も退かない自分を信じていただけに、私は慌（あわ）てた。そして、狼狽（ろうばい）する自分の姿から目を背けるように、自分を逃げ口のない場所へ追い込もうとした。誓約書を書いたのは、そういうしだいである。</p>
<p>1994（平成6）年暮れ、私は父の反対を強引に押し切って、直営2号店となる豊田若林店をオープンさせた。結果は連日の大盛況で、幸いなことに、私は丸坊主を免（まぬが）れた。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.newtopleader.jp/pickup/life/1207/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>
