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  • 闘うトップ2014年7月号

    母から受け継いだ妥協なき「本当の保育」を志す(株式会社コビーアンドアソシエイツ・社長 小林照男氏)

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衝撃を受けた病床での母の言葉

戻ってみると父の病気は命にかかわるほどのものではなく、どうも母の策略だったようです。案の定、すぐに母が園長を務める保育所を手伝わされた。調理室での皿洗いや園庭の手入れ、園舎の補修など裏方の仕事です。最初のころはアメリカに戻って働くことばかり考えていましたが、保護者のリアルな声を聞いているうちに、少子化といわれるけれども、日本の保育事業は実は隠れた有望産業ではないかと思うようになったのです。

1年かけてデータを収集し、世の中の動向を調べたら、それが確信に変わりました。母に相談すると「やっと気づいたの?これから保育所はますます足りなくなってくる。すぐに始めなさい」と言われた。

そこで銀行から融資を受け、母が園長を務める認可保育所とは別に、98年、野田市に認可外保育園を開園しました。開園前は手応え十分だったのに、いざ開園してみると集まった園児はわずか6人。しかも2人は姉と私の子供でした。開園当初はお金がなく、経営者の私も保育士の妻も無給で、夕食は持ち帰りの牛丼ばかり食べていました(笑)。

               ◇ ◇ ◇

そんな折、事件が起こる。前年に除去手術を受けていた典子氏のガンが再発し、医師から宣告を受けたまさにその日のことだ。典子氏の保育所で、父子家庭の父親が園に子供を預けたまま失踪してしまったのだ。警察にも届け出たが見つからず、結局、遠方の親戚に翌日引き取りにきてもらうことになった。

深夜、その報告に病院に出向くと、点滴を腕に刺したまま典子氏は暗い廊下のベンチに1人座って待っていた。顛末(てんまつ)を聞くなり、ガン宣告を受けたときも取り乱すことのなかった典子氏が「ちくしょう。私がこんな体でなかったら……」と言いながら、悔し涙をポロポロとこぼした。

               ◇ ◇ ◇

母は大きな寺の娘で、習い事は一通りやっていました。小さいころから日本画を学び、歌は声楽家並でピアノも弾けて字もうまかった。まさに保育士のカリスマのような人で、「ちくしょう」なんて汚い言葉を聞いたのは、あとにも先にもあのときだけです。自分の子供以上に園児を大切にするような人で、保育に命をかけていたことを痛感しました。

その後、母は一度復帰しますが、2年後に亡くなります。ガンが全身に転移して、余命いくばくもない時期にあっても医師に「どんな副作用にも耐えるから治療して生かしてください。私には子供たちが待っているんです」と言っていた。

このときの経験によって、母の遺志を継ぎ私も保育の仕事に一生を捧げようと肚をくくることになりました。

幸い、私の園は口コミで評判が広がり、年々園児は増えていきましたが、しばらくは経営は苦しかった。安定したのは規制緩和により2003年に野田市で公設保育所2園の運営を受託してからです。競争相手は多かったのですが、柔軟なサービスを提供できる50年間のノウハウがあるとアピールしました。その意味で私の実績ではなく、母の実績が評価されたといえるでしょう。実際、開園に当たっては、かつて母のもとで働いていたベテラン保育士が集まってくれました。



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