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  • 闘うトップ2014年8月号

    扱いやすいリヤカー「軽car(カルカー)」で地方発のものづくり力を証明したい(株式会社中村輪業・社長 中村耕一氏)

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中村社長は66(昭和41)年、義兄が経営するオートバイ販売店に勤務していた父武久氏の長男として生まれた。姉と妹との3人きょうだいで、のちに父が独立してからは、自然と家業を意識するようになったという。

手先が器用で、幼いころから機械いじりが好きだったことから、長崎県立島原工業高校機械科に進んだ。大学は親元を離れて久留米工業大学に学び、卒業後、福岡市の自動車ディーラーに就職。7年間、メカニックとして働いた。

その後、父の要請もあって、95年に退職して帰郷。父とともに家業の業績向上に努めたが、過疎と高齢化が進む小さな町の自転車販売店に将来性を見出すことはできず、やむなく廃業を覚悟するに至った。

だが、04年に開発した「軽car」のヒットで危機を乗り越えると、中村社長が新事業に専念する間、父が続けてきた自転車販売業を徐々に縮小し、08年には法人化して「軽car」の製造・販売に転換。リヤカーの復権と家業の再建を果たした。

               ◇ ◇ ◇

私が「軽car」の開発に取り組み始めて、ヤマト運輸の担当者さんからご注文をいただくまでの間は、親父にも家族にも、本当に苦労をかけたと思います。わずかな蓄えを取り崩してリヤカーをつくるだけでも、世間様の常識からすれば「変人」です。それなのに、朝6時から夜中3時くらいまで、日曜日も祝日もなく、毎日、どこかへ出ていく。正気の沙汰ではありませんよね。そうした生活が、半年間は続いたでしょうか。

実は、軽トラックに「軽car」を積んで、長崎県内をあてもなく回っていたんです。離島を除いて、県内はほとんど隅々まで訪れたと思います。

しかも、われながらおかしな男だと思うのですが、売るというより、それを必要としている方々に届けるべきだと、真剣に考えていたんですね。畑で農作業をしている方や港に釣り竿を垂らしている方がいると、島原からきました、と声をかけて、「軽car」の軽さを体験していただく。でも、買っていただこうなんて考えていないので、「軽かねー」という言葉を聞くことができれば、それで満足でした。

そして、日が暮れたら、こんどは飲食店におじゃまします。お許しをいただいたら、店内に手づくりのチラシを貼らせてもらう。追い返されることも多かったけれど、そうした日々が、どういうわけか楽しかったんです。



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