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  • トップの生き様2014年3月号

    永続・繁栄に導く意思決定とは 社運を分けるトップの決断(旭電機化成株式会社・社長 原直宏氏)

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取引先の海外移転で売上の3割を失う


大きな代償を払って当面の危機を乗り越えたものの、当然ながら、その後も私どもを取り巻く状況が厳しいことに変わりはなかった。喫緊(きっきん)の課題は、従来の光熱器具部品に代わる売上の柱を確立することで、以来、私どもはプラスチック加工技術を活かして、様々な分野に生き残りの道を模索することになる。

実際、それから20年ほどの間に私どもがたどった軌跡を挙げてみると、鍋の取っ手から日用雑貨に転じた後は、魔法瓶の部品を手掛け、やがて電子部品業界に参入してパソコンやプリンター、デジタルカメラ、携帯電話と、培(つちか)った技術が活用できる分野なら手当たり次第と言ってよいほど積極的に挑戦している。そうしてなりふり構わず売上の確保に奔走しながら、設備投資を控え、借入金の返済と自己資本比率の充実に努めて、財務体質の改善を図った。

だが、ちょうどバブルが弾けたころ、私どもは転機を迎え、私は何度目かの重大な決断を迫られることになった。それまで売上の3割を占めていた取引先が、生産拠点を海外へ移すことになったのである。ともに海外へ移転して売上を維持するか、売上の3割を失っても国内に残るか。私どもにとって、それは決定的な分岐点だった。

個人的な心情を言えば、もちろん国内に残りたかった。私どもは大阪という街に育てられ、私自身も大阪に生まれ育った。従業員も、ほとんどは大阪に愛着を感じているに違いない。だが、感傷に引きずられてはならないと戒(いまし)めた。売上の3割を失って、本当に雇用を守ることができるのか。今回の一件は、これを契機に、心機一転、海外で飛躍せよという運命の導きではないのか--。

考えるほどに迷いは深まり、気持ちは揺れ動いた。しかし、時間がない。拭(ぬぐ)い切れない不安に圧迫されながら、私はいつまでも腹を括(くく)ることができなかった。そして、あやふやな気持ちのまま、私は移転先候補地の視察に出掛けた。

そうして悩み抜いていたころ、あるとき、その取引先の方とゆっくり話す機会があった。その方は、もし旭電機化成も一緒に移転してくれるならありがたいと感謝しつつ、「でも」と続けた。

「でも、原さん。売上が3割も消えれば当面は苦しいでしょうけど、たかが3割です。長い目で見れば、原さんは自社商品をやったほうがいい。下請けより面白いし、夢がある。原さんは日本に残るべきです」

そう熱心に話してくださるのを聞いたとき、不思議なもので、私の目の前から霧が晴れた。手のつけようがないほどもつれていた糸が、するするとほぐれた気がしたのである。そのとき、私は忘れがたいできごとを思い浮かべていた。

それは、まだ私どもが必死に小さな売上を積み重ねていたころだった。ある取引先が主催して、一夜、下請け会社の経営者を宴席に招いた。私もその一人として、席に連なった。やがて、酒が回り、座が乱れてきたとき、取引先の担当者が誰にともなく言った。

「おまえら下請けは肥だめのハエや。払っても払っても、たかってきよる」

酒の席での放言で、分別のある大人なら聞き流すべきかもしれない。だが、私にはできなかった。それまで、私は下請けが日本の産業を支えているというプライドをもっていたつもりだったが、それが一気に色褪(あ)せていくような気がした。しょせん、下請けは使い捨てにすぎないのだろうか。

私は、心のなかで彼の言葉を強く否定した。同時に、いつの日か自前の商品をつくり、自分たちの実力で勝負したいとも思った。

移転先候補地を視察しながら、それでもなお海外への移転を決断しかねていたのは、自社商品で勝負したいという夢が渾身(こんしん)の力で抵抗していたからだった。もし、私どもが取引先とともに海外へ移転したら、おそらく下請けから脱して自立する機会は訪れないだろう。それでも売上の確保を優先して経営の安定を図るべきか、苦境は覚悟のうえで自社商品の開発に挑戦するべきか。

いずれも一理あるが、取引先の方から助言をいただいたとき、私の心は決まった。決め手は、仕事に「夢」を描けるかどうかという点である。従業員には、仕事にやりがいや創造する喜びを感じてほしい。従業員を第一に考えるなら、その実現をめざすべきなのだ。私は、すべてがみぞおちのあたりにすとんと落ちたような気がした。

国内にとどまることを決めて以降、私どもは自社商品の開発をめざして研究を重ねた。失った売上は大きく、その穴は容易には埋まらなかったが、顧客の新規開拓に努め、従業員の理解を得て仕事量を調整しながら乗り切った。そして、95(平成7)年、「スマイルキッズ」というブランドで生活便利グッズの展開を始めた。

当初はヒット商品に恵まれず、販路開拓は難航したが、おかげさまで98年にヒット商品が生まれると取引先も増え、売上は拡大していった。現在、アイテム数は500点を超え、それらの売上は年商の7割を占めている。



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(株)名南経営コンサルティング
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