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    『獺祭』を世界に広めて日本の農業にも貢献したい(旭酒造株式会社・社長 桜井 博志氏)

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1950年、桜井社長は山口県周東町(現岩国市)に生まれた。家業の旭酒造は、江戸時代の1770(明和7)年創業と伝わる。1892(明治25)年、桜井社長の祖父が蔵元の経営権を入手。その後、2代目を父が継いだ。
1973(昭和48)年、桜井社長は松山商科大学(現松山大学)を卒業。西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年、旭酒造に入社した。だが、酒づくりの方向性や経営をめぐって父と対立するようになり、退社。親戚に石材採掘業者がいたことから、79年に桜井商事を設立し、石材卸業を始めた。
将来への布石が倒産の危機を招く以後、桜井社長は酒造業から離れ、桜井商事を年商2億円の事業に育てるが、84年、父の急逝により旭酒造の3代目を継ぐ。その後、石材卸業は従業員に譲渡して、旭酒造の経営に専念するようになった。だが、3代目としての歩みは、まさに苦難の道のりだった。
社長就任時、清酒業界には第1次焼酎ブームの逆風が吹いていた。同社も、販売量が最盛期の3分の1まで減少。年商は前年比85%という厳しい状況で、関係者からは倒産も遠くないと思われていた。桜井社長は、看板商品だった本醸造一級酒『旭富士』を主力として、紙パック入り商品の発売や大胆な値引き政策で経営の立て直しを図ったが、改善には至らなかった。
その後も試行錯誤を繰り返したが、やがて酒造業の原点に立ち返るべく、品質重視の経営に転換。それにともない、東京圏の大消費者層にねらいを定めた大吟醸酒の開発に取り組んだ。そして、数年の後、『獺祭』が誕生する。
それ以降、売上は着実に伸び、経営の危機を脱するが、99年、岩国市の観光名所「錦帯橋」そばにオープンしたレストランが、わずか3か月足らずで閉店。損失額は当時の年商に匹敵する約2億円に及び、旭酒造は再び倒産の危機に直面した。



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