厳選記事

  • これがわが社のヒット&ロングセラー2013年5月号

    『銘菓ひよ子』(1912年発売/ひよ子本舗吉野堂)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加


『銘菓ひよ子』
かつて炭鉱で栄えた福岡県の筑豊飯塚。鎖国時代に輸入砂糖を運ぶ長崎街道(通称・シュガーロード)に面していたため、昔から菓子づくりが盛んな地域でもあった。
そんな町で生まれた『名菓ひよ子』は誕生から100年。まさにニッポンを代表するロングセラーだ。

優しい甘さの黄味餡(きみあん)を香ばしい皮に包んで焼き上げた、ひよこ形の菓子。全国的にも高い知名度をもつ『名菓ひよ子』が、発売からすでに一世紀を経ていることをご存知だろうか。手に取ると、誰もが微笑(ほほえ)まずにはいられない、この愛らしい菓子が誕生したのは、大正元(1912)年。石炭発掘が盛んだった福岡県飯塚市で明治30(1897)年に開業した菓子舗「吉野(よしの)野の堂」(現屋号・ひよ子本舗吉野堂)の二代目店主・石坂茂氏の発案だった。

カフェを営むほどチャレンジ精神が旺盛だった二代目は、昔からある何の変哲もない丸い饅頭や四角い菓子ではなく、もっと人々から愛される商品をつくりたいと常々考えていた。そんなある日、夢の中にひよこが現われたという。(やっと探していたものと巡り会えた)と感じた二代目は木型づくりに着手。挑戦の日々が始まった。

いまでこそ、動物をかたどった菓子は珍しくないが、100年前のこと、滑らかなカーブを描き、顔を上に向けて佇(たたず)む、ひよこの姿を立体的に表現しようとは誰も思いつかなかった。試行錯誤を重ね、ようやく完成した『ひよ子』は、発売するやいなや、炭鉱景気にわく飯塚の労働者や地元住民の熱狂的な支持を受け、順調に売上を伸ばしていった。ところが、昭和32(1957)年、三代目・石坂博和氏は同社の運命を変える大きな決断を下す。当時、福岡市内で一番の繁華街だった新天町(現・天神二丁目)への出店を決めたのだ。現在、同社を率いる五代目・石坂淳子(あつこ)社長は言う。

「いきなり福岡の一等地への進出ですから、いま思えば、ずいぶん思い切った決断でした。けれど、この英断が功を奏し、店にはお客様が殺到。焼き上がる側(そば)から商品がなくなるので、店仕舞いを早めたほど。卸先の中には、店まで商品を取りに来られるところもありました」

昭和32年といえば、飯塚炭鉱閉山の4年前。往時の勢いを失い、斜陽化が進んでいた町から、その後、九州一の都市へと変貌する福岡への進出は、ひとえに三代目に先見の明があったというほかない。

大胆で迅速な意思決定と行動力は、昭和39(1964)年にも発揮された。東京オリンピックの開催を機に東海道新幹線が開通したこの年、東京圏への進出を決めたのだ。

「当時すでに『ひよ子』が九州を代表する菓子になったという自負はありましたが、三代目はさらに上を見据えていました。新幹線で全国から上京する客に土産物として普及し、日本を代表する菓子に育てたい、という夢があったのです」

同社はまず、埼玉県に工場を設立。その後、2年かけて慎重に生産体制を整えたうえで販売に乗り出した。販路を急拡大しても、品質と商品供給の仕組みが伴わなければ、菓子の評判が高まるどころか、せっかくのブランドに傷がついてしまうと考えたからだ。東京駅八重洲口に店舗をオープンすると、三代目が描いた夢そのままに『ひよ子』は東京銘菓として多くの客の心をつかんでいく。

現在は、九州を拠点とする株式会社ひよ子と、東京で事業を展開している株式会社東京ひよ子の2社体制となり、売上比率は九州6に対して東京4。九州で生まれ育ちながら、東京圏でこれほど高い売上と知名度を誇る菓子は『ひよ子』をおいてほかにはないだろう。



≪ 関連書籍 ≫

『実践 経営実学 大全』
(株)名南経営コンサルティング
定価 6,264円
(本体 5,800円+税)
関連書籍
  • 社員を幸せにしたい 社長の教科書
  • 言いわけばかりで動けない君に贈る33のエール
  • 「売らない」から売れる!どこにでも売っている商品を「ここにしかない」に変える5つの法則
  • ランチェスター戦略「小さなNo1」企業
  • 安部龍太郎「英雄」を歩く
このページのトップへ